ようぼくの定義|ナゼおかきさげは大切なのか|オンライン第2回教理勉強会
こんにちは、くっきーです。
過日、コムヨシサロンにてヒサマツ氏@damedameyohbokによる第2回目の勉強会が開催されました。
残念ながら自教会の月次祭準備のため参加できませんでしたが、記録に残して下さっていたので、何回も見まくってテープ起こしのようなかたちで自分の勉強のために記録しました。
レッツ、アウトプット!
前回のポイント(2つ)
おかきさげの概要
- ようぼくの心構えというおさしづがあるから
- おかきさげ以外のことは話さなくて良い(おかきさげより他のこといらん)
以上のことから、おかきさげは大切であると言える。
今回はその続きになるがその前に…
前回ヒサマツ氏がものすごく衝撃を受けたこと
「ようぼく」という言葉の定義がヒサマツ氏が考えるものと、広く天理教信者一般に使われるものとのズレ
○信者一般のようぼくのイメージ
ようぼく=おさづけをする人
とすると(ようぼく=おさづけをする人)にとっておかきさげは大事だよとなってしまいかねない。
※おさづけは大切で大事なは当たり前なのが大前提なことなのだけれど。
現在、おさづけ自体に疑問を持っている方にとって、おかきさげも疑問に思われかねないので、一旦ここでようぼくの定義を改めて行う。
まずは、ようぼくの定義をそろえる。
ようぼくという用語がそのまま教語として多く用いられるようになったのは、教理の「復元」に応じて原典が公刊され、昭和24年(1949)に天理教教典が公布されてからである。
天理教事典
さらに、
昭和34年の教規改正のとき、それまでの信者の3段階を示す「信徒・教徒・教師」の呼称が「信者・ようぼく・教人」の3段階に改められて、ようぼくは天理教信者の信仰経歴を表す呼称ともなった。
17歳以上の信者で、教会本部において9度の別席を運び「さづけ(さずけ)の理」を拝戴するようぼくとなる。この用法ではようぼくは「さづけの理の拝戴者」を意味する。
天理教事典
つまり、
ようぼく=おさづけをする人
⬇︎
昭和34年以降から広まっていった。
では昭和24年、34年以前はどうだったのか?
ようぼくという言葉はもちろんあったが、違う意味で使われていた。
おふでさきでの用法
一寸はなし神の心のせきこみハ
よふぼくよせるもよふばかりで 3:128
よふぼくも一寸の事でハないほどに
をふくよふきがほしい事から 3:130
おふでさき
親神によって量的に期待されている。
人数がたくさん欲しい。
にちにちによふぼくにてはていりする
どこがあしきとさらにをもうな
をなじきもたんたんていりするもあり
そのままこかすきいもあるなり 3:131,132
いかなきもをふくよせてハあるけれど
いがみかかみハこれわかなハん 3:50
おふでさき
質的に求められている。
歪んでいる、屈んでいるものは適わん。使いづらい。質が大事である。
よふぼく=信者のなかでも陽気ぐらし世界建設を建物の建築に例えて、布教伝道にあたる者をそのために使用される用材として見立てた言い方である。
天理教の布教伝道の場における人材にする。
信者の中でも、世界だすけによりコミットが深く質が問われる信者
※コミット(責任の伴う約束や目標や目的に対して積極的に関わる、責任を持って引き受けるという意思表示。)
要約
昭和24、34年以降
よふぼく=おさづけをする人
昭和24、34年以前
よふぼく=質が問われる信者
☝︎ヒサマツ氏の考えるようぼく
ようぼくの心構えは裏を返すと、質が問われる時(質の内容とは)、おかきさげに書かれていることを実行できる人!
質の基準がおかきさげに書かれている‼️
質が問われているからこそ、その質の基準をどこに求めるのか。
おかきさげに求めるべきである。
以上、よふぼくの定義について。
次回、教理勉強内容予告!
予習、ヒサマツブログを読むことww
おわり